©2023 Tani-Roku Futonya KUGA
軽井沢にて
日本の原風景と異なる「特別な場所」
今年10月、軽井沢を訪れたのは、たまたま見た『ブラタモリ』でやっていたという安直な理由から……。標高1,000メートル前後の高地に位置し、平均気温8.2℃。そこは、日本の原風景ともまったく異なる「特別な場所」でした。
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カラマツ等の針葉樹の緑と苔の緑が見事に調和し、冷ややかな湿気を帯びた空気が立ち込めている。視覚・聴覚・嗅覚、そして皮膚感覚を通じて脳が心地良いと感じる、そんな場所……。
軽井沢を訪れたのは始めてでしたが、資産家たちがこぞってこの地に別荘を持ちたがる理由がわかるような気がしました。世俗の垢で薄汚れた心を解き放つには、これ以上の場所はない。ここにいると、そんな気さえしてくるからです。
軽井沢は元々、中仙道六十九次の宿場町として栄えた街。
それが明治に入り、碓氷峠の開通や参勤交代の廃止などに伴い寒村化が進み、衰退の一途を辿っていたところに、かの福沢諭吉の家庭教師も務めていたというカナダ人宣教師、アレクサンダー・クラフト・ショー氏が訪れ、この地を気に入り、明治21年に別荘を設けたことで外国人が次々に別荘を建てて発展。
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しかし、この地に足を踏み入れてみると、ここには日本の原風景に必ずあるはずのもの、田んぼや畑が広がる光景がまったく見当たらないことに気が付きました。そう急峻な地形でもないはずなのに何故?
その答えは、後になってわかりました。
軽井沢の土壌の大部分は、天明の大爆発により、浅間山が噴火した噴出物が降り積もりできた土地。そのため、ph5.2と酸性度が強く農業に適さず、永住には不向きの地だったんです。実際、軽井沢の農地面積は街全体のわずか2%にすぎず、そのことが避暑地、別荘地としての発展を遂げたことに大きく関与していたんですね。
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それにしても、関西でいうと近江八幡などもそうですが、西洋人が街の建築や設計に携わり、その発展に寄与したところは、彼らの美意識が色濃く反映されていて、街の景観が本当に美しい……。
彼らが、その土地のことを、そこに住む日本人以上にこよなく愛していたことが容易に想像できます。実際、この軽井沢の「顔」ともなっている、針葉樹の林も、戦後の植林によって計画的につくりだされたものだと言います(それまでの軽井沢は荒れ地だったそうです)。
結局のところ、その土地の美しい景観をつくりだしているのは、そこに住む人々の、その地に対する深い愛情以外にないんですね。
標高1,000メートル級の高地、浅間山の噴火、農業に不向きな土壌、偶然訪れた外国人の来訪と寵愛……。これら偶然が重なった結果、今の「軽井沢」の反映がある……。
そこは、日本の原風景ともまったく異なる「特別な場所」でした。
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(今回のお話は2015年『眠りの楽屋裏通信』vol.50に掲載したものです)