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大坂城の脱出地下道

探偵ナイトスクープに依頼するような大ネタ

「こういうのをみると、私ら世代はどうしても防空頭巾を思い出すんですよ」

先日、うちの並びにお住いの得意先のSが来られ、せがれをモデルにしたパシーマの湯上りタオルのPOPを見てそう漏らすので、「この辺りでも空襲があったんですか?」とお訊ねすると…。

この界隈で生まれ育ったSさんは饒舌に語り始めました。

戦時中はこの辺りにも防空壕がいたるところにあったこと。

防空壕に入ると返って危険で何人も中で亡くなった人をみたこと。

この近くにも爆弾が落とされ、大きな穴が開いたこと。

焼夷弾は内臓された焼夷材が周囲にばらまかれ、広範囲にわたって火災を引き起こすので、消すことが非常に困難だったこと。

近くに小杉タオルという大きなタオル工場があったこと。

うちの少し北側には当時「華族」が住んでいたこと。

上町台地はかつて桃の木がたくさん植えられていて、この辺りは「北桃谷」と呼ばれていたことなど(それに対し、今の桃谷は南桃谷と呼ばれていた)、長年住み続けていなければ知りようのないお話を興味深くお聞きしました。

中でも、驚いたのが、Sさんが子どもの頃にはこの辺りから大坂城へと続く、長い地下道が延びていたという話でした。

Sさんは実際、その地下道に入り大坂城まで行こうとしたそうですが、暗く複雑でなかなかたどり着けなかったと語っていました。

大阪城は度重なる戦乱や災害に見舞われてきたことから、もしもを考えて地下道をつくっていた可能性は十分にあります。事実、秀吉は、天下統一を阻止しようとする敵から城を守るため、さまざまな防御策を講じていましたし、秀吉の死後、家康は大阪城を改修し、さらに強固な城郭を築くためにさまざまな防御策を講じていたことからも地下道が設けられていても不思議ではありません。

もし、そんな地下道があったのなら、探偵ナイトスクープに依頼するような大ネタになるな…と一人、心を躍らせています。

しかし、戦時中、幼少期を過ごしたことから推測されるSさんのご年齢は78~94歳くらい。この世代の方がお亡くなりになれば、こういう事実も忘れ去られてしまい兼ねません。

そう思うと、居ても立っても居られない気持ちになってしまう今日この頃です。